佐久間 徹プロフィール 2

 東京の九段高校から、早稲田大学理工学部にいって、途中からまさかいくことになろうとは、夢にも思わなかった秋田大学医学部にはいって、6年間秋田で過ごした。春の桜の綺麗なことと、夏の神秘的なほたると幻想的な竿灯祭りと驚くような冬の雪と寒さが強く印象に残った年月だった。その後、筑波研究学園都市にできた筑波大学にて6年間レジデント生活を送った。

 そのころの研究学園都市は、まだ建設途上で、山の中に突然できた人工の都市という感じだった。初めて筑波研究学園都市にいったとき、土浦駅から学園都市行きのバスに乗ったら、バスがどんどん山の中に入っていって、あたりに人家が全くなくなくなってしまった。いったいこんな山奥に都市なんかあるのか、と思ったところにビル群が突然出現して、驚いたことを覚えている。

 筑波大学の付属病院では、まだ新設で人手が足りないこともあって、いろいろなことを学ぶことができた。 なにしろ、循環器内科のチーフレジデント、消化器内科のチーフ、呼吸器内科のチーフ、血液内科のチーフなどを経験することができたのだから。いまの、人が有り余っている大学からはおよそ考えられないいい経験をできた、と感謝している。

 大学では、コンピュータによる心機能解析や、心臓エコー(ともにいまでは珍しくもなんともないが)などにたずさわらせていただいた。

 6年目のおわりころ、つくばで科学万博が開かれることになって、それを契機につくられた筑波メデイカルセンター病院に 勤務することになった。筑波メデイカルセンター病院というのは、第三次の救急病院で、そこで内科科長として新しくシステムをつくったり、新しい治療をしたり、精力的に仕事をすることができた(新しもの好きなんだろうか)。専門が循環器だったこともあって急性心筋梗塞などの急性の病気と時間との戦いをしていたという印象がつよい。

 教授には、この病院に一年間だけ行って来てほしいといわれたが、一年では、システムができあがらなかったので、もう一年居させていただいた。それである程度の実績をあげえたと勝手に思っている。 いろいろな患者さんを相手にするうちに、おのれの学問と経験の浅さを感じ、医局の教授にたのんで東京は六本木の心臓血管研究所にゆかせていただいた。

 心臓血管研究所にいって、教授のような人がずらっといるのにびっくりした。カンファレンスなどはまるで教授連合による面接のようで、初めはだいぶ緊張したが、彼ら(当然偉い人々だったが)はみな、やさしくて、おかげで私もだんだんくつろいでいった。彼らというより諸先輩方は、鋭い洞察力の持ち主ばかりで、いろいろ教えていただいた。

 心臓血管研究所では、カテーテル検査、負荷検査におもにたずさわり、心筋梗塞の研究や運動負荷の研究をしていた。 とてもいい経験ができたと感謝している。

 そうこうしているときに、筑波大学の元副学長が筑波近郊に新しくできる病院の院長になるから、手伝いに来てほしい、とお世話になった教授からおさそいがあった。手がけていた研究も途中だし躊躇したが、後輩たちを教えてほしいといわれて、行くことにしてしまった。

 開院をひかえて赴任してみてびっくり。そこの副院長に、筑波大学のレジデント時代にこいつとはもう二度と一緒に仕事をしたくないと思った講師がおさまっていた。 知っていれば来なかったのに、と思ってももうあとのまつり。しょうがない、と思って新しくシステムをつくって、カテーテルによる心筋生検や血管内視鏡の実験(これは心臓血管研究所でやった)なんかも精力的に(?)やった。が、いかんせん暗くて陰険な副院長とは、うまが会うわけもなく、結局熱海の国立病院に赴任してしまった。

北関東はどうもよくない、北方は鬼門だ、というわけで南下したわけだ。

 南下した先が、なんと熱海。
 以前つくば時代の冬休みに伊豆高原に旅行したことがあった。つくばの冬は、毎朝自動車のフロントガラスの氷を溶かしていたようなとっても寒いところだった。そんなところから行った伊豆高原は、冬なのになんて暖かいところなんだ!明るくていいところだなあ、将来こんなところに住みたいなあ、と思わせたところだった。 そのインプットされた記憶が、熱海行きに多大な影響をおよぼしたことはいうまでもない。
熱海は、国立病院とはいえ、設備は貧弱で、最新設備などなく、古ぼけていて、、いままでの救急専門から、まるで余生を過ごしにきた様な感じだった。でも、それまでさんざんカテーテル検査などをして、体がレントゲン酔いするようになっていて、手洗いの消毒液でかぶれるようになっていたから、神様がもう休みなさい、といっていたのだろう。熱海ではとにかく魚がうまかった!温泉も頻繁に入れたし、体を休めるにはいいところだった。とはいっても、人手が足りなくて、いろいろな役をやらされたが。